誰のため
千奈は兄貴、ゆきひろと昔から付き合ってる。
千奈が階段から落ちたとき、助けたのが出会いのきっかけなんだって。
そのせいで、千奈は今、杖をついて生活してる。
高校生の井間は実家で暮らしていた。
チャイムがなったので玄関を開けると、
千奈が、家のドアを開けたら立っていた。
井間「…兄貴はいないけど」
千奈「え、うそ、今日家きてって」
井間「またか」
兄貴はルーズで、自己中。
でも、すっごく明るくて、ポジティブ。周りの空気を明るくする。そんな人だった。友達は多かったし、人気者だった。
だから、その持ち前の明るさで、ノリで彼女作って、思ったのとちがう、と振られていた。自分を取り繕う気はないから。仕方ない。
よく言えば、嘘つかないスーパーポジティブ人間。
そこは、自分にもほしいところだ。
そこだけだけど。
千奈「…あ、連絡、きてた…友達と遊ぶって…帰るね、私」
井間「あ、千奈」
千奈「ん?」
井間「ケーキ、あって、食べきれないから、一緒に食べてくれない?」
口実を作って、今にも泣きそうな千奈を呼び止めました。
ソファに座っている千奈にケーキと紅茶を持ってきました。
井間「…また泣いてるの」
千奈「あ…たかちゃん…」
井間「ほら」
井間は千奈にティッシュをボックスごと渡しました。
千奈「ありがとう…優しいね、たかちゃんは」
井間「ドタキャン?」
千奈「ううん…私が気付かなかっただけだから…」
井間「…ごめんね、ほんと、兄貴、だらしないから」
千奈「ね、ほんと、いっつも私の約束後回しにして、私だって暇じゃないのに」
この人は、俺の前でよく泣く。
そんなに、我慢してまで、なんで付き合うのかな…何が…そんなにいいのかな…兄貴の。
千奈「たかちゃん、モテるでしょ」
井間「…ん?」
千奈「人の気持ち、考えて、優しくできるもんね」
井間「…そうかな」
千奈「お兄ちゃんは、自分勝手で、好きなことしかやらなくて…」
井間「ほんとそう」
千奈「好き嫌いもすごいんだよ?」
井間「…人参嫌いとか、可愛くないよね」
千奈「私が新しい服着ても、ネイル変えても、似合ってないとか言ってくるし。ご飯作っても、美味しくないとか言うし」
井間「じゃあ…なんで付き合ってるの?…俺…なら、ちゃんと大事にするけど」
千奈「…え?たかちゃん…」
井間「…俺なら、幸せにするよ?」
千奈「…ごめんね、好きなのは…ゆきひろだから…」
井間「そんな、嫌な思い、してるのに?」
千奈「…それは…」
ガチャン、勢いよくドアが開きました。
ゆきひろ「あれ?千奈?」
井間の兄が帰ってきました。
袋に入ったパンを片手に。
…聞かれたかな…さっきの、聞かれててた方がいい。その方が、兄貴も危機感持つだろ…
ゆきひろ「連絡したじゃん!待ってた?もしや?」
千奈「ううん、連絡見てなくて…友達と遊ぶんじゃなかったの?」
ゆきひろ「ああ、やめた!友達がパン屋始めてよー、開店祝いもらってよー、千奈と食いたかったから!」
焼きたてのほかほかのパンを片手に、ニカッと笑うゆきひろ。
この様子だと、聞いてないな。
千奈の顔にさっきまでなかった喜びが滲み出ています。
井間はコップに口をつけ、たびたび飲みました。もう冷めてる。
井間「…開店祝いって渡すものじゃないの?なんでもらってるの」
ゆきひろ「え?そうか?」
井間「それより、兄貴、千奈泣いてたんだから、ドタキャンしたのまず謝れよ」
ゆきひろ「えー!ごめんーーさみちかった?」
千奈「もー、たかちゃん余計なこと言わないで?この人どうせ治んないでしょ?」
井間の兄「もうしない!ね!」
千奈「信用できませーん」
なんで、さっきまで泣いて、文句言ってたのに、こんないい加減な人と、にこにこしてんだよ。
井間は腹が立って自分の部屋に戻ろうとします。
千奈「あ、たかちゃん」
井間「何」
千奈「さっきの答え、たかちゃんも、ほんっっとに好きな人出来たら、わかるよー?」
井間の兄「え?なになになに?なんの話?お前、彼女ゴロゴロいるだろ?え?それは関係ないの?」
千奈「ねー内緒ー」
ゆきひろ「おーい!戻ってこいよ!お兄ちゃんとお話ししよー!ほら!パン!食べよーぜ!」
井間「いらない。」
この、脳みそお花畑め。
井間はそのまま部屋に入りました。
好きな人できてもわかんないよ、わかんないから、聞いたんじゃん。
千奈を慰める役回りが、2人が結婚してからもずるずると続いている。
しかも、今は兄貴の怠惰さじゃなくて、家族を養う大黒柱の勤め、と言われてしまうから、逃げ道がない。
しかも、千奈に赤ちゃんができてから、もっと不安定になり、毎晩電話がかかってくる日もあった。
しかも、赤ちゃんが…なんて言われたら、断れない。
あぁ、重たい。
芽衣と付き合う前、兄貴と電話が奇跡的につながった日があった。ちゃんと千奈のことを見ろ。というのだけれど。
井間「ねえ、最近家帰ってないの?千奈。泣いてるよ?」
ゆきひろ『仕方ねえだろ、こっちは嫁と赤ん坊養って行くんだぞ?稼がなきゃいけないの』
井間「だからって、千奈のそばにいてやらなきゃ、かわいそうだろ。それじゃなくたって、お腹に子供いて、不安だろうに」
ゆきひろ『たかひろがいてやれよ、少しぐらい手貸せよ、昔からあいつ、お前に心開いてるだろ?』
井間「俺じゃ…だめなんだって、兄貴の嫁だろ。自分の嫁ぐらい自分でどうにかしろ」
ゆきひろ『頼むって!家族背負ってんの!それに、たかひろ、お前、千奈のこと好きだったろ?』
井間「…いつの話…ってか、聞いてたの」
ゆきひろ『だからさ!ラッキーと思ってな!』
井間「自分の嫁なんだ思ってるの」
ゆきひろ『冗談だってー!あいつは俺のこと大好きだから裏切られない自信ありまぁす!』
井間「寝取ってやるよバーカ」
井間はブチッと電話を切りました。
冗談だけど、そんぐらい危機感持て。
井間「何のために結婚したんだよ。」
足が悪い千奈は1人で出かけられません。
だから、一緒に出かけるときは手を繋いで…
芽衣がいくら気にしない人だからと言って、自分に罪悪感がある。
子供だって…すれ違ってる夫婦に育てられるの…辛いだろ。
兄貴は真っ直ぐすぎるんだよな。
それに、俺が裏切られる寸前だぞ。
不倫って、こうして起きるんだな。きっと。
・
芽衣「ねぇ、浮気してるの?」
井間「っっゴホゴホゴホ!」
芽衣と2人。井間の家でソファて並んでご飯を食べていた。
芽衣の空前のパンブームで、今日はもっちりパンらしい。
突拍子もない質問に喉を詰まらせる井間。
芽衣は焦って背中を摩ります。
芽衣「大丈夫?!大変!」
井間「っっ…ありがとう…それより…なんで?」
芽衣「友達から聞いて、浮気してるよーって。
井間さん、別に好きな人いるなら、別れよっか!」
井間「え」
いやいや、まって。
疑われるようなことした自分が悪いのですが、そんなサラッと、明るく別れを切り出さないでよ。
井間「…待って、誤解…だよ」
芽衣「浮気、してないのね?」
井間「………しないよ」
芽衣「なーんだ!勘違いか…妹とか?手繋いで…ってそんな浮気相手に見えるぐらいの歳の女の子って、お兄ちゃんと手繋がないか」
井間「妹いない…」
芽衣「あ、そうなの?…じゃ、なんで?」
よかった、逆に興味持たれないのも辛い。
言いたくないけど、これで愛想尽かされるかもしれないけど。
ここまできて黙っているのは卑怯だ。
井間「出かけてたのは…兄貴の嫁」
芽衣「おにいさんの、へぇ」
井間「今、その人、千奈っていうんだけど、赤ちゃんいて、お腹に」
芽衣「あら、おめでたいね」
井間「兄貴、仕事仕事で、全然家に帰らなくて」
芽衣「あら…」
芽衣が話聞いてくれるから、余計なことまで言ってしまう。家族のこと、芽衣に関係ないのに。
聞いて欲しくないのに、聞いてほしい。
井間「毎日、泣きながら電話来て…様子見に行って…最近、元気になって、少しね、気分転換に、散歩とか連れてって」
芽衣「そうだね…不安定になるよね…」
井間「足悪いから…買い物、着いてったり…してて。その時…手、繋いで…た」
後ろめたさしかない。
彼女いるのに、手なんか繋いでいいのか。
でも、転んだら、赤ちゃんが…
そんな、家族の問題なんて、彼女に…芽衣に、関係ないのに。
芽衣「井間さん…」
これは、愛想尽かされても仕方ない。
振られる覚悟をした瞬間。さっき詰まらせたパンが逆流したような。喉がぎゅーっと締まる。苦しい。
やめろ。
苦しいのは俺じゃない。
しかし、
芽衣「ほんっと優しいねぇ!お兄ちゃんのお嫁さんにまで、いやぁ、そんな弟素晴らしいじゃん」
井間「…え?」
芽衣がいつもみたいに目をキラキラさせて誉めてきた。
芽衣「でもー、お兄ちゃんにちゃんとしなさいって言わなきゃ、この先大変だよ?
育ててくの、井間さんじゃないんだから。
言ってあげるのも、優しさだよ!ね?」
全然耳に入ってこない。
全部話して、態度を何一つ変えない。なんて。
井間「…怒ってない?」
芽衣「…今のに怒る要素あった?」
井間「…黙って女の人と会ってたんだよ?手も…繋いだよ?」
芽衣「しかたないじゃん、家族のピンチ、でしょ?」
まぶしすぎる。
井間はそんなポジティブな芽衣に感謝しながらも、苦しくなります。
ちっちゃい人間だな、俺。
芽衣は、逆の立場だったら。全力の善意で千奈のことを応援するだろう。
自分は優しくするのに疲れてる。
全員に優しくするなんて、無理なことはわかっているのに。
何にせよ、1番大事にしたいのは、芽衣だから。
芽衣「今度私も手伝おうか?えっとー、千奈さんのこと!」
井間「いいよ、迷惑かける、
それに、ちゃんともう、あんまり会いに行かないようにする。芽衣ちゃん言った通り、これから育てるのは2人だもんな、ちゃんと2人に話してもらう」
芽衣「それがいいと思う!夫婦は仲良しじゃなきゃね!」
井間は芽衣の顔を覗き込みます。困ったラブラドールの顔だ。
井間「芽衣ちゃん」
芽衣「なぁに?」
井間「…本当に…怒ってない?」
芽衣「怒ってないよもぉー!怒るよ!」
芽衣はクッションを笑いながらぶつけました。
許されてしまった。
信頼…されてるんだ。自分は、嬉しいことなのに、どうでもいいって思われてるのでは?と、ネガティヴな考えが脳裏に宿る。
怒ってほしかった。なんて、贅沢。
続く